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スティーヴ・ミカリックの再起
ボディビルディングの奇蹟

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月刊ボディビルディング1981年1月号
掲載日:2020.03.26
ビル・レイノルズ
マッスル・ビルダー誌編集長

訳=松山令子
IFBB・JAPAN副会長
IFBB・JAPAN国際総局
 普通なら死んでいたにちがいない大怪我の生死の境からよみがえって、4年にわたる凄絶な自己との闘いに勝つて、プロ・タイトルを賭けた熾烈な戦いに復帰したスティーヴ・ミカリックの物語である。
 奇蹟は誰のところへも訪れる。しかし、それを自分のものとするかどうかは、その人次第である。
 今から4年前、スティーヴ・ミカリックは、ただ生きているというだけの瀕死の重傷の体を、ニューヨーク病院の一室に、死と向いあって横たえていた。下半身は完全に麻痺しており、医師たちは、将来、彼が自分の脚で歩くのは絶対に不可能だと宣告した。
 しかし、今年2月、スティーヴは誰の助けもかりずにコンテストのステージにのぼった。しかも、彼のいままでの生涯での最高の体で。
 それはフロリダ・グランプリであった。スティーヴは、名だたる強豪を相手に堂々と戦い、ディカソン、ヴィエタ、パディラに次ぐ4位を得たのである。
 この物語は、1976年のオリンピア・コンテストの2日前の夜に始まる。その時、スティーヴは、ミスター・アメリカのタイトルと、ミスター・ユニバースの身長別クラス優勝を果した実績によって、シュワルツネガーから、その年のオリンピア・コンテストへ参加するよう招かれていた。
 その夜スティーヴは、彼自身のジムへいき、車で帰宅の途中であった。
 突然、彼のムスタングが、巨大なゴミ運搬トラックに押しつぶされた。いいようのないほど巨大な怪物がスティーヴの眼前に迫り・彼の車のフェンダーの1つが風防ガラスを突き破ってスティーヴの方へ突進してきた。スティーヴはそのまま気を失なった。
 スティーヴが気がついたのは、病院のベッドの上だった彼は自分の叫び声で正気に戻ったのである。
“さあ、はやくここを出てコンテスト会場に行かなくちゃ!”と彼は大声で叫んでいた。そして彼は起きあがろうとした。しかし、彼の脚はピクリとも動かなかった脚があるという感覚さえなかった。
 この事故の直後、押しつぶされたムスタングを見たスティーヴ夫人のトマシナは言った
“それはまるで踏みつぶされたジュースの缶のようにペシャンコでした。
 私には、どうしてスティーヴが生きていられたのかわかりません。”
 まったく、スティーヴが病院にかつぎこまれた時は、やっと呼吸しているというだけが、生きているしるしだった。彼の体に突きささった無数の車の破片を、彼の体を切り開いて取出すのには45分もかかった。背骨は折れ、頭蓋骨は陥没し、片方の脚の坐骨神経はズタズタに切断されており、左腕は麻し、左大胸筋はちぎれてブラブラだった。
 ほんとうはもっと状態は悪いはずだったスティーヴの大きい体は車体に固く固定されていたので、衝突の際の衝撃にもかかわらず、車外に投げ出されることがなかったので、トラックはスティーヴの体ごとムスタングを押しつぶしたのである。普通の体の人間ならとっくに死んでいたにちがいない。スティーヴの命を守ったのは、彼の体がボディビルディングのトレーニンによって、強固な骨組と、強靱な筋肉をつくりあげていたので、それが彼の大切な内臓を守ったからである。
 病院での日々の間、彼は全く気が狂わないのが不思議なくらいだった何故あんな事故が起ったのだろう。何故あんな事故が自分を襲ったのだろう。そう心の中でくり返しながら、あの日の恐ろしい事故が信じられなかった。しかし、動かない足が、事故が彼に現実に起ったことを知らせるのだった。
 入院した時はがっちりとした筋肉だけの225ポンド(約102kg)の体が、入院中、自暴自棄になり、手当り次第につまらない食物――アイスクリームやキャンデーなどに手を出したために3ヵ月後のいまは、180ポンド(約81kg)の脂肪の塊となった彼のウェイストは生まれて始めて30インチ(約76㎝)をこえた。
 このままでは、生きた屍になる以外にないと思ったスティーヴは、必死に退院の許しをもとめた。そして、帰宅を許されてからのスティーヴを介抱しその生命を支えたのは、妻のトマシナの愛情と献身であった。
 医師たちが、スティーヴには歩行の可能性が絶対にないと断言したことをスティーヴは忘れはしなかった。しかし、当然のこととして、スティーヴ自身は、
医師たちの意見に同意しなかった。ボディビルダーとして、普通の人間の限界をはるかに越えた強い忍耐力と意志の力を養成してきたスティーヴは、必ず医師たちの診断が誤りであったことを自分の体で立証して見せようと決心した。
 退院してから・トマシナは毎日、根気よくスティーヴの脚を動かした。しかしスティーヴの脚には感覚が戻ってこなかった。普通の夫婦なら、ここで諦めたことだろう。しかしスティーヴとトマシナには人生は挑戦であった。スティーヴの体を元どおりにすることが、彼ら2人にとっては人生への挑戦であった。
 スティーヴは、精神外科医に相談した。すると外科医は、スティーヴに水泳をすすめた。水中では体は空気中より軽い。水中では、筋肉にも神経にもストレスが少ない、というのがその理由である。
 スティーヴは毎日何時間かをプールで過ごした脚は動かないので、もっぱら腕で泳いだ。そうしているうちに徐々に、非常に徐々にスティーヴの脚に感覚が戻りはじめた。筋肉も機能も徐々に回復しはじめた。
[信じがたいことだが、これが1年近くも下半身が完全に麻痺していた人の体だろうか]

[信じがたいことだが、これが1年近くも下半身が完全に麻痺していた人の体だろうか]

 事故から8、9ヵ月後に、スティーヴはジムで上半身のトレーニングを始した。
パートナーのダン・モジェルスキーが車で彼をジムへ運び、ジムでは、はじめはすべてのエクササイズで彼を助けた。そうしているうちに、スティーヴは、ある種の器具に体をあずけるとか、ベンチに仰臥してならトレーニングが出来るようになった。
 辛抱強いダンの協力は、スティーヴの更正にとってなくてはならないものだったスティーヴは身体各部を5セットずつトレーニングし、それを10日間つづけることを1つのサイクルとした。
 スティーヴの弱った体には、95ポンド(約43kg)のベンチ・プレスがやっとだった。しかし、それを始めてとてもよかったことは、それをするごとによってスティーヴの精神状態が非常に爽快になったことであった。スティーヴは心の中で、いつかきっと脚のトレーニングをも自分はできるようになるだろうと確信を抱くことができるようになった。
 スティーヴの最初の下半身のトレーニングは、非常に軽量なウェイトでの不格好なレグ・イクステンションだった。しかもたった1セット。
 これを見た医師たちの驚きは非常なものだった。だが、スティーヴにとっては、これがすべてのことのはじまりなのであった。
 間もなくスティーヴは、松葉杖をついて歩きはじめ、やがて松葉杖は不要となり、ステッキがスティーヴの友となった。やがて、そのステッキもステイーヴには不要となり、彼はびっこを引きながら自分で歩いた。そして遂にスティーヴはびっこを引かずに歩ける日がきた。
 そして、スティーヴには待ちに待った以前のとおりのハード・トレーニングが出来る日が訪れたのである。医師たちはスティーヴの回復を見て唖然とした。彼らはボディビルダーの何たるかをまるで知らなかったのである。
 いつの間にかスティーヴの心の中には、もう一度コンテストで戦おうという意欲がわいてきた。充実したトレーニングをたゆまずつづけるためには、いつもコンテストを目標におくことが必要だった。最初のプランでは、一昨年のコンテストに参加するつもりであったが、カゼを引いたので、昨年2月のフロリダ・グランプリが彼の目標となった。
 大怪我のために、いままでどおりのスケジュールのトレーニングが不可能になったスティーヴは、新しいトレーニング方法を考え出さねばならなかった。

 それは、1週間のうち6日間をトレーニングの日とし、最初の2日間には身体各部にわたって75セットのトレーニングを行ない、次の2日間には同じく45セットを、そして最後の2日間には同じく25セットを行なうという方式であった。人はこれを強化システムと呼ぶ。
 スティーヴは背骨に大きなストレスをかけることがゆるされなかったので以前よりはずっと軽いウェイトを用いねばならず、その結果として以前よりは格段に多いセット数を必要とした。また、絶対に行えない種目もあった。たとえば、スタンディング・プレス、スクワットベント・ロウのように、すべて背骨にストレスのかかる種目である。
 この強化システムは、若い元気なボディビルダーにとって、体を大きくするためには最良の方法である。しかし若いボディビルダーでなくとも、このような大量のトレーニングに堪え得る強い意志を持ち、かつ、8ポンドから10ポンド(3.5kgから4.4kgくらい)の赤身の肉や魚を摂取し得る消化力のある人にとっては、これ以上ないすぐれたトレーニング法である。
 75セットもトレーニングを行なうということは、非常に大量のカロリーを燃焼させる登要があるので、それにふさわしい分量のカロリーを摂取することは、これだけのトレーニングを遂行する上に欠くべからざる条件である。強化トレーニングと大量のカロリー摂取は切つても切れない要件である。
 ジョン・デフェンデスはスティーヴの後輩の1人であるが、この強化システムによって信じがたいほどの効果をあげた。たった1年で、何でもないボディビルダーからチャンピオンに変身した。
 同じことは去年、ジョー・ファルコにも起こった。彼も、やはりたった1年でティーンエイジ・ミスターUSAをとった。最近のニューヨーク選手権では、スティーヴの経営するジム(ロングアイランドのファーミングテールにある“ミスターアメリカのジム”)から参加した選手たちで上位6位までを占めた。
 スティーヴは、いまや世界のトップボディビルダーの域に達した。それは彼がちょうど5年前に達していた域である。妻のトマシナと息子のスティーヴ・ジュニアは100パーセント彼に従っている。
 スティーヴは、明らかにボディビルダーとして恵まれた遺伝の体と、世界最高レベルのボディビルダーになるために苦労をいとわない強い意志を持っている。ウェイスト、ヒップ、膝、それにくるぶしが非常にほっそりとした骨組みに出来ていて、一方で肩幅の骨組みは幅が広く、そこへ大量の筋肉をつけ得るという大きなメリットをもっている。


 では最後にスティーブ自身に語らせよう。彼はフロリダ・グランプリのあとで私にいった。
“ぼくは勝ちたいと思いました。しかし、ぼく自身の個人的なチャレンジの目的は、ぼくがどれだけ困難を克服して、どれだけ自分の理想とする体をつくりあげるかを見きわめることでした。そして、ぼくが最も見たかったのは、フロリダ・グランプリに自分で歩いて出場し、そして4位をとったときのぼくの写真を見るときの医師たちの顔でした”
 スティーヴの奇蹟、それは決して他から与えられて起こったものでなく、彼自身の意志と努力で勝ちとったものである。
月刊ボディビルディング1981年1月号

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