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新春座談会
生涯スポーツとしてのボディビル<中編>

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月刊ボディビルディング1992年2月号
掲載日:2020.01.24

広がりつつあるマスターズ・パワー

●出席者/遠藤光男(日本ボディビル連盟副会長)・磯村俊夫(東京ボディビル連盟副理事長)・増渕聖司(東京ボディビル連盟常任理事)
編集部 ところで今回の磯村さんの世界大会3位入賞という好成績に象徴されるように、日本においてもここ数年、マスターズパワーというものがだんだんと広がり、さらにまた浸透しつつあると思うのですが如何でしょう。もちろんそれはコンテストの様相だけではなく、ジムにおける会員数という数字の面においても表れているのではないかと思うのですが。

●ボディビルの中毒性

増渕 70年代初頭、ボディビルが普及発展に向けて歩み始めた頃に取り組み始めた人達が、その後ずっと継続した結果、現在、40代半ばから後半に差しかかっているのとちょうど符合しているという面もあるでしょうね。

遠藤 僕は昔、後楽園ジムでやってましてね。もう30数年も前のことですが、当時は僕が一番若くて周りは年上の先輩ばかりでした。現在では、それらの人達は全国に散らばっていますが、各地でまだまだ健在というところを見せ、トレーニングに励んでいるようです。そういった話を聞くにつけ、あるいは実際にその光景を目の当たりにするにつけ、つくづくボディビルというのは凄いな、ある意味で中毒性というのがあるなと感じますね。

 僕のジムでも、第二の人生と言ったら大袈裟かも知れませんが、たとえば会社を定年退職した後の人生を、いかに悠々と生きがいを持って過ごすかという難題に直面した結果、入会してくる人達が確かに少しずつ多くなってきたようです。その第二の人生の再スタートに当たって、まず健康管理ということが頭に浮かぶのではないでしょうか。それにしても、それら中、高年の会員さん達のお陰でジムの雰囲気がよい意味で非常に柔らかくなりつつありますね。

増渕 とにかく続けることが一番ですよね。たとえば仕事の関係で半年とか一年のブランクをつくりながらでも、今も尚、十年も二十年もコツコツと続けている人達というのは、やはり凄いと思います。ところがその一方で、学生コンテストなどで好成績を上げた人達が社会人になってやめてしまうケースというのも非常に多い。我々の感覚からすると、ある一時期、無我夢中になっていることからすっぱり割り切ったように縁を切るなんていうことはちょっと理解に苦しむことです。が、そうは言っても社会に出れば、仕事に追われるなどして、ついついトレーニングから足が遠のいてしまう。それはやむを得ないことなのかも知れません。

 しかしそういった試練、というと大袈裟になりますが、それをくぐり抜け、数年のブランクの後にジム戻ってきた人達というのは、もう死ぬまでやめられないんじゃないかと思っています。

磯村 遠藤さんが言われた、いわゆる良い意味での中毒性があるということでしょうね。

遠藤 トレーニングを続けていると、やはり体調がすこぶるいいんですよね。それはトレーニングから僅かでも遠のいてしまった時に痛感することです。本当にその時の状態がいいから忘れられなくなる。すなわちそれが良い意味での中毒性ということです。

 それと先程、中・高年者がジムに入会しつつあるという話をしましたが、こんなことはありませんか。僕がジムを開いたのは25歳の時ですが、今、その歴史を振り返ってみると、自分の或はコーチとほぼ同じ年齢の会員の人達というのが不思議と集まっているんです。現在ですと、今年、僕は50歳になりますから、その前後の年齢層の人達が割と増えつつあるんです。そういうことを感じたことはありませんか。

増渕 それは実際にあるでしょうね。

遠藤 結局、同じくらいの年齢の人がいれば、話題というのも比較的一致して、会話もはずむでしょう。教えるのも教え易い。すなわち50代の人には50代のコーチが指導する。これが既に高齢化社会を迎えつつある現代においての、我々ジム経営者の一つのポイントになるのではないかと思います。

 そう考えると、コーチというのは何も若くて、体が良くなくてもいいわけです。むしろ人生経験を積んだ40代、50代の人達の方が立派に務まるのではないかと思います。現に僕のジムには40代のコーチが2人いますが、非常に評判が良くて、僕自身が安心して任せられるんです。その意味でコーチに求められるのは、何よりもまず、人間性というものを最重要点に置いた上での総合的なものではないかと思います。その意味においても将来、50歳前後のコーチが誕生したって決しておかしくないと思います。いや、むしろマスターズという人生の熟年者たちがボディビルに取り組み始めようとしている現状においては、今後、そういう人達が貴重なコーチとして活躍する場が必ずや必要となってくるのではないかと考えます。

増渕 それは僕も実際に経験したことがあります。というのはあるジムがオープンした時、1ヵ月間だけ臨時のコーチとして依頼されたことがあり、50歳前後の人をマンツーマンで指導してあげていたわけです。で、ちょうど僕がいない時に、その人が黙々と腕のトレニングをしていた。そこへ若いコーチがやって来て、「そのやり方はちょっと違う。もっとこうやった方が効きますよ」と言った。すると「私はあの先生の言っている通りにやっているんだ。だいいちボディビルダーになるために来てるんじゃない。自分のコンディショニングのために来てるんだ。黙ってろ」と、その若いコーチを怒鳴りつけたというんです。

 そのコーチも一生懸命なんですよね。こうした方がもっと腕が太くなるのにと、よかれと思ってアドバイスしたんだろうけれども、結局、その一点にしか目がいってないものだから、そういう結果になってしまったのだろうと思います。我々も確かにこの人にはこういう方法がいいと思う時があるけれども、見て見ぬふりをしなければならないところ、引かなければならないところというのが実際、あるわけです。ところが若いコーチというのはそれがなかなかできないんです。その辺りはやはりキャリアの差というのでしょうか。

磯村 しかしながらそういった形でボディビルが熟年者の間にも、どんどん広まって来れば、社会にも根を下ろして近い将来、確固たる地位を築いてくると思います。
記事画像1

●トレーニングの効能

増渕 それとどうでしょうか。20年、30年の間、コツコツと続けている人達というのは、気力も体力も、見かけより10歳くらい若いですよね。

遠藤 そうですよね。僕なんか、年齢不詳のところがありますからね(笑)。そう言うと、国籍不明だなんていう人もいるかも知れないけれど(一同爆笑)。

増渕 僕もそうですけど、年齢を聞かれても隠す訳ではないんですが、だんだん言いたくなくなってくるんです(笑)。そしてそのうちに忘れちゃう。

遠藤 トレーニングを続けている間は、とくに感じないのでしょうね。ところがそれをパタッとやめちゃうと、当然のごとく次第次第に体力は衰えてきます。するとその時になって初めて年齢というものを痛切に感じるようになる。世間一般の人達が自分の年齢を感じるというのは、外見的なものよりもむしろ体力的な、健康的な衰えの方に意識を持つことに起因しているのではないかと思います。その意味においてトレーニングを継続し、体力を維持し、気力も維持していれば、年齢というのを全く意識しなくなるというのも頷けます。

磯村 それにしても凄いなと思うのは、トレーニングを続けていると、何もしていないサラリーマンの人達との体力的な差はどんどん開くばかりだということです。

増渕 それと実際に健康でいられるでしょう。そして意外に忘れられているのが、筋肉を作るということは、それだけ毛細血管も発達しますから、血液の量も必然的に一般の人よりも多くなるわけです。そしてそれだけのものを維持するために、二次的にではありますが、内蔵機能も強くなってくる。すなわち10年、20年とトレーニング続けている人達というのはいかに健康かということです。

遠藤 確かに筋肉と内蔵というのは、密接なつながりがありますからね。東洋医学では内蔵の調子が筋肉に現れるということが言われます。要するに筋肉の質とか能力を逆に調べれば、その人の内蔵が調子いいか、悪いかの判断材料になるということです。

 また精神的なものも筋肉に関与しているのではないかとも思います。筋肉が生き生きと張っていれば、気持ちも張って来るものだし、逆に体がしぼんで来ると、心も落ち込んで来ものです。そういう意味で、自分の精神状態を常にリフレッシュし、積極的な気持ちを維持させるには、トレーニングというのは非常に効果的なものだと思いますね。

増渕 それとこれも若い時にはそれ程感じなかったことですが、ある程度の年齢になると、たとえば仕事の都合などでどうしようもなくて1週間くらいトレーニングできない時がありますよね。するとその分、ピタッと食欲が落ちてしまうんです。そういうことってありませんか。

磯村 私の場合は、ここ数年、大会を目指してやってきたので、とくにそういうことを感じたことはありませんでした。

遠藤 僕なんか、すごくありますよ。僕の場合、完全休養というのは、一年に2、3日しかありませんが、そういう一日中、家でゴロゴロしている時、言い換えれば、運動をしていない日はもうなすがまま。一日一食とかね。ですから生活を規則正しくしようと思うとやはり運動をしていた方がいいですね。

編集部 今、遠藤さんは週にどのくらいトレーニングされているんですか。

遠藤 基本的には週5日やるんです。もちろん増渕さんが言われたように、忙しくて1週間くらい空いてしまう時もありますが、それでもトレーニングを行う日は必ず一時間半はやっています。だから外見的には昔と変わっていないと思うんです。体重も90㎏をずっと維持していますしね。もちろん密度的、重量的には落ちていますが、もうトレーニングを始めて33年間不変となっていることですから、そういう体になりきっているんです。だから健康状態もいいですよ。風邪もここ20年間ひいたことがありません。おかげで女房には逆に憎らしいくらい体が丈夫だとよく言われますが(笑)。

磯村 確かに風邪はひかなくなりましたね。免疫力が増すのでしょうね。

遠藤 二日酔いもしないですね。あれは本当不思議です。やはり新陳代謝が活発なのと、ボディビルダーは食べながら飲みますよね。それもいいんじゃないかと思います。増渕さんは食べ物がなくてもいいんでしょう(笑)。

増渕 そう。お酒だけあれば十分です(笑)。

遠藤 僕は飲む時には必ずつまみがないと飲めないんです。いや、本来、酒そのものがそれ程好きじゃないのかも知れないですね(一同笑)。
日本ボディビル連盟副会長●遠藤光男氏

日本ボディビル連盟副会長●遠藤光男氏

●ボディビル今昔物語!?

磯村 しかし時代の変遷というのか、今と昔では随分と変わりはしたね。

遠藤 ボディビル連盟が正式に発足して今年で38年、僕がボディビルを始めて34年目。先にも述べたように、後楽園ジムが僕のボディビル人生の一番最初の拠点でした。磯村さんも僕より後に後楽園ジムに来て、一緒にやったこともあるんですが、その当時、東京にはボディビルジムは確か2軒くらいしかありませんでした。後楽園ジムと渋谷の日本ボディビルセンターで、このうち後楽園ジムは2年前になくなりました。

 当時はボディビルジムというよりも、道場という感じで、僕は高校生の時にそこに入会したんですが、入会するのに3ヶ月かかった。というのは、ジムは学校のちょうど前にあり、毎日、見学に行ってはいたんですが、恐くて入れなかったんです(笑)。

増渕 それは分かる。僕もそうだった(笑)。

遠藤 バーベルを持ち上げて、その持ち上げた位置からドーンと下に投げ下ろすんです。練習をやってる人はみんなね、それは怖かった(笑)。

磯村 器具もありませんでした。あの当時はまだコンクリートバーベルが随分とありました。

遠藤 そう。ベンチプレスの台だって、シートやクッションがなくて、ラワンの板がそのまま剥き出したものだから、ダンベルフライとかベンチプレスをすると、背中が血だらけになってしまう(一同笑)。そしてかさぶたができて、皮が厚くなってくると、今度はそこに毛が生えてくる。

磯村 そうそう、“ベンチだこ”なんて言葉があったくらいですからね(笑)。

遠藤 そしてそこに3本か4本くらい毛が生えてくると一人前なんです(笑)。またラットマシンなんていうのは、ほとんどないに等しくて、引っ張るとプレートが揺れて壁にぶつかったり、自分にぶつかってくるからまともにできないんです。

増渕 要するにさしピンじゃなくて、プレートをのっけて引っ張るだけでガイドレールがないから、分銅みたいにあっちに行ったり、こっちに来たりするわけ。

遠藤 そういう状態だからトレーニングの種目だって数えるほどしかない。胸はベンチプレス、脚はスクワット、肩はバックプレス、上腕二頭筋はバーベルカールなど。おおむね一つの筋肉に対して、一種目くらいでしたね。現在は一つの部位に対して、4種類も5種類もやっていますけどね。
セルジオ・オリバー

セルジオ・オリバー

スティーブ・リーブス

スティーブ・リーブス

増渕 僕は後楽園ジムのことは、よく知らないんですが、人づてに当時の思い出話を聞くと、ベンチプレスなどは、みんな行列して並んでいたとか。

遠藤 ベンチプレスが一台しかなかったんです。それにあの当時、会員が二千人くらいいたかな。だから仕事が終わってからのちょうど6時から7時の最も混む時間帯になると、その前に20~30人の行列ができている。そこで60㎏からスタートして10kgずつ上げていくんです。従って70㎏しか上がらない人は2セットやって終わり。そうしてみんなリタイアしていって、やっと空いてくるのが、120~130㎏くらいからです。だから当時は体が良くなるには力も強くなければならなかった。

編集部 それを凌いでいった人達が、大きく強くなっていったのでしょうね。

磯村 だからある反面、その仲間に入るには100㎏くらいは上げないと、恥ずかしくてその列には入れませんでした。でもあとは全部フラットベンチだけ。仕方なく、ベンチプレスも自分でバーベルをおなかの上に転がして、それから持ち上げたものです。それで潰れても何ともなかったですね。今の人は潰れると大変ですけど。

増渕 大騒ぎ!

遠藤 その分、怪我も伴いましたけどね。でも潰れても平気だった、怖くなかった。

増渕 そうしたトレーニング法もそうでしょうが、サプリメントなんていうのも、当時のそれはひどかったですね。遠藤さんの頃はプロティンはありましたか。

遠藤 全然、何にもないですよ。だから食べ物で摂るしかなかった。ただサプリメントと言えるかどうか分からないけども、エビオスってあるでしょう。それを一日400錠ずつ飲みました。

編集部 400錠!

増渕 それとあと太田胃散。

遠藤 当時、それが流行ったんですよ。
東京ボディビル連盟常任理事●増渕聖司氏

東京ボディビル連盟常任理事●増渕聖司氏

磯村 遠藤さんのエビオスと言ったら、有名だった。だからみんなそれに右へ倣えするところがありましたね。

編集部 一体、どうやって飲むんですか。

遠藤 牛乳で飲むんです。だけど気持ち悪くなるから、途中で梅干しをなめて、一旦、口の中をリフレッシュさせてまた飲むんです。400錠を1日4回に分けて、さらにその100錠を4回に分けて飲んでました。一番気持ち悪かったのは、黒ビールに蜂蜜と卵を入れて、それでエビオスを飲んだ時ですね。あれは本当に気持ち悪かった(笑)。

磯村 とにかく体が大きくなるとか、体にいいとか聞くと、味なんか全然関係なかったですね。

遠藤 とくに情報というのがまるでなかった時代でしたからね。だからよけいにその数少ない情報とか噂には我を忘れて飛びついたものです。
アーノルド・シュワルツェネッガー

アーノルド・シュワルツェネッガー

増渕 逆に今はあり過ぎるんですよね。

遠藤 そう。ある意味では、その分、個性というものがなくなってきたということでしょうね。我々の時代は人間的な個性というのも強かったけども、体の個性もすごくあった。

増渕 確かに今はレベルアップされてよくはなっているんだけれども、逆に没個性でつまんない部分てありますね。

編集部 画一化されてきたというか。

増渕 そうです。マニュアル通りに体ができていくというような感じで味がないような気がします。

編集部 そう考えると、ボディビルの歴史というのはまだまだ非常に浅いんですね。

遠藤 浅いですね、日本では。

増渕 ちょうどオリバーの頃からじゃないですか。そしてアーノルドが出てきて、フランク・ゼーンへと続く頃・・・。

遠藤 僕が始めた頃は、スティーブ・リーブスでした。とにかく先にも述べたように、栄養の知識も何もないでしょう。だから練習を始める前に、体にバターを塗って、エネルギーを皮膚から吸収するんだとか(一同笑)、あるいは哺乳瓶に牛乳を入れて、飲みながら練習をしたり(笑)。今、こういった話をすると、笑い話になってしまいますが、当時はみな真剣に取り組んでいたことですからね。

増渕 オリバーというと、遠藤さんがユニバースに出場した時(1969)、一緒だったんでしょう。

遠藤 そう。左にセルジオ・オリバー、右にリッキー・ウェインでした。リッキー・ウェインは気が荒くてね。あの当時は、コンテスト会場の2階に折り畳み式のベッドを置いて選手を泊めていたんですが、中には調子の悪いのもあるわけです。運の悪いことにリッキーのベッドが壊れてしまってね。もう怒って、ベッドを床に叩きつけていました。その時、正直、いやぁ、とんでもないところへ来てしまったなと思いました。またオリバーはオリバーで夕べ、お酒を飲んでお金を全部使い果たしてしまった。だから帰ることができない、貸してくれないかって言ってくるし(笑)。

 その翌年からアーノルドがユニバースに出てきたんですが、それにしてもあの頃は、今だからこうして話していますが、いろんなことがまだまだ沢山ありますよ(笑)。

増渕 でもボディビルはアーノルドが台頭し、圧倒的なスーパースターとなったお陰で、70年代の斯界を大きく引っ張っていってくれました。そして現在も、映画というメディアで大活躍していますが、彼がボディビルを一般の人達にうまくアピールさせた貢献度は、計り知れないものだと思います。だって我々の頃は、ボディビルをやっているなんて言うと、変な目で見られたりしたでしょう。

磯村 ものすごく変な目で見られましたね。ボディビルやっているなんてとても言えなかった。

遠藤 だからウェイトトレーニングやってますとか、バーベル運動をやってますとかね。だって僕は高校の時にもうやっていたでしょう。で、就職試験の時、面接に行って試験官に「君、いい体しているけど、何かスポーツやっているのかね」と聞かれたので「ボディビルやっています」と答えると「あんなものやっていると結核になって心臓や肺を悪くするからやめなきゃダメだよ」と怒られたことがあります。もちろんその会社はこちらの方でお断りしましたけれど。

編集部 やはりその当時はボディビルは理解されていなかった。いや逆に誤解されている面の方が多かったのでしょうね。

遠藤 後楽園ジムに通っている頃、仕事の都合で当然、行けない日ってあるでしょう。だからそんな時は夜中の1時頃、練習したくて、自転車に乗って、近所の公園に行くんです。その公園にはジャングルジムがあって、それでバー・ディップスをやり、鉄棒でチンニングをやる。真冬の夜中の1時頃は公園の鉄棒は冷たくてね、でも、やっているうちに次第に暖まって、最後には汗をかいてくるんです。でもなにしろ夜中のことだから、ハプニングもありました。その練習中、おまわりさんがやって来て、懐中電灯で照らされてね(笑)。

 「おまえ、そんなところで何やってるんだ!」と職務質問されて「ボディビルやってます」と答えると「怪しいからちょっと交番まで来なさい」そう言われたことが3回くらいあります(一同笑)。そして交番で身の潔白を示そうと裸になってポーズをとったら、逆に「かんべんしてくれ。もう帰っていいよ」って言われてしまった(一同爆笑)。その意味で、当時のボディビルダーというのは、まさに隠れキリシタンの心境でしたね。
東京ボディビル連盟副理事長●磯村俊夫氏

東京ボディビル連盟副理事長●磯村俊夫氏

磯村 そう考えると、ボディビルが理解され、社会性が出てくるようになったのは、増渕さんも言われたようにせいぜいこの10年、いや下手をすると、ここ5、6年の間かも知れませんね。

増渕 そうですね。さっきも言いましたが、アーノルドとかスタローンがああいうタイプの映画を作るようになって、それで一般の人達にも抵抗なく受け入れられるようになったと思います。それを証明するように、その一般の人達がジムの看板を抵抗なくくぐって来れるようになったのも、ここ数年のことではないでしょうか。昔は、ジムは大通りに面したところには作ってはいけないと言われたものです。何故ならば、質屋とジムはこそこそとうしろめたさを感じながら入っていくものなので裏通りに面してないと人目についてしまうからというわけです(笑)。表通りだと入りづらい。

遠藤 気持ち悪いと言われたからね。性格的にもおかしいんじゃないかとか。

増渕 事実、おかしい人もいました(笑)。

遠藤 随分いた(笑)。僕もその中の一人ですが(笑)。

増渕 いわゆるコンプレックスの裏返しで取り組み始めたという人も結構いましたからね。信号待ちしているところでいきなりダブルバイセップスのポーズをとったり、電車の中で、ウォーという叫びと共に吊り革につかまってチンニングしたり(笑)。

遠藤 よく解釈すれば、嬉しくて仕方ないんです。銭湯なんかもただ行くんじゃなくて、パンプアップしてから行く(笑)。それはボディビルダーの宿命みたいなものですからね。プレジャッジを受けるようなものです(笑)。

磯村 そしてうんと大きくなると、今度は逆に恥ずかしくなってね、隠すようになる。

遠藤 そう。大きくなりかけの頃は、人に見せたくてしょうがないんです。
遠藤氏の青年時代

遠藤氏の青年時代

増渕 江の島なんかに行くと、胸を張って走っている。

遠藤 何度も行ったり来たりね。でも海にはよく行きましたよね。3月がボディビルダーの海開きだった。

増渕 そうですね。今みたいに、日焼けマシンなどない時代ですからね。太陽に当たる以外にないわけですから。しかし逆にそんな時代だったからこそ、コーラを肌に塗ると焼けるというようなことも流行ったりしました。とにかくその信憑性というのは二の次で何もかもが新しい発見でした。

編集部 そうしたことが、今日のボディビル界の礎となっているのでしょうね。その意味でも若い人達には、その黎明期から発展途上、そして今日に至る普及発展の歴史というものを知ってもらいたいと思いますね。すると若い人達とシルバーの人達とのコミュニケーションが生まれ、さらなるボディビル界の発展にも結び付くのではないかと思います。

遠藤 そうですね。話は前後しますが、僕なんか始めた当初、手製のバーベルを作りました。繰り返し述べるように、会社に勤めていた頃は、仕事が忙しいとどうしてもジムに行けない日もあるでしょう。そんな時はいつも公園に行くわけにはいかないし(笑)。するとどうしても自宅にバーベルを置きたくなる。しかしまともにそれを買うと高いでしょう。だから鉄工所に行って5㎏、10kg、20kgの鉄板を切ってもらい、それにシャフトをつけて安く作ってもらいました。

増渕 僕も作ってもらったことがあります。今、話したらお笑いなんですが、シャフトが15mmくらいしかない(笑)。それで左右に鉄の丸棒を溶接しているだけだから、頼りなく、またプレートも回らないんです。

遠藤 僕はチンニングバーも家に作った。鉄パイプと、材木屋に行って4寸柱を買って来てね、穴を掘って作りました。とにかく日本一の背中を作りたいという気持ちがありましたから、家でもそれをやっていないと不安だったんです。あの頃はボディビルイコール逆三角形というイメージが強かったでしょう。

磯村 遠藤さんはジム(後楽園)でもいつもぶら下がっていましたよね(笑)。当時、遠藤さんのチンニングといったら有名でしたから。私は兄の影響で始めたんですが、当時はブロレスの力道山が全盛の頃で、大きくて力強い人に対する憧れがあったんでしょうね。私も最初の頃はやはり手製のバーベルを作ってやっていました。とにかく一人でできるというのが魅力でした。性格的にも合っていたんでしょうね。

遠藤 他人に干渉されない。ある意味でこれは最高。

磯村 そして自分でやっただけのことが、結果として跳ね返ってくるでしょう。その結果がすぐに表れるか、あるいはずっと先になって表れるかは人それぞれだけれども、その未知の自分自身に対する究極の理想像に向かって、常にまた貪欲に憧れを抱き続け、かつ実践していける。そしてそれはまた誰にも拘束することのできないものです。やればやるほどその深みにはまって行ってしまうというのでしょうか。だからやめられないんです。
(構成/本誌編集部)
月刊ボディビルディング1992年2月号

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